ゴールデンウイークも終わり、若干ではあるが暖かくなってきたと、町田は体操着に着替えながら思った。

 いま、町田は体育館に備え付けの更衣室で、制服からジャージに着替えている。

 次の時間は体育。

 町田は体育委員に所属しており、本来ならグラウンドに一番はじめにでて、授業の準備などを手伝わなければならない立場だ。

 自分が遅れてはしめしがつかない。

 そんな真面目な思考を持ちながら、町田は早々と着替えをすませると、小走りで外へと出た。

 と、そのとき。


「あれ? 町田くん?」


 遠くから声がして、そちらをおもむろに振り向く。

 そこには、自分の目下の悩みの種である、増田千鶴がいた。

 彼女もすでに体操着姿に着替えている。

 暖かくなっているからか、千鶴は大胆にも長袖のジャージを着ていない。

 生地の薄い、半そでのシャツに身を包んでいる。

 遠目からも、彼女の大きな胸が強調されていて、こちらに歩いてくるたびに、ユサユサとソレが揺れるのが分かる。


(ま、まずい)


 彼女に会ったら何をされるか分からない。

 町田はそう思い、そそくさとグラウンドに向かうことにした。

 グラウンドは山の上を切り開いたところにあって、冗談みたいに急勾配な階段を上っていかなければならない。

 町田は、野球部の練習でつかったこともある階段を、急いで上っていくのだが、


「こら、なんで逃げるの、町田くん」

「うわっ!」


 あっという間に追いつかれ、併走される町田。

 階段を必死に上りながらも、自然と彼の視線は、千鶴の大きすぎる胸に釘付けになる。

 ぶるん、ぶるん、と、他者を威圧するように揺れる爆乳。

 町田は、自分の意思とは無関係に、その光景に目を奪われてしまった。

 彼女は、半そで半ズボンである。

 クラスの女子のほとんどが、恥ずかしいのか長袖を着ているというのに、千鶴はそんな男子の視線など気にならないらしく、おしげもなくその大きな胸を布地一枚でさらしていた。


「ほら、急がないと、遅れちゃうよ。わたしと町田くんが体育委員なんだから、遅れたらまずいでしょ」


 言われた言葉に、町田は暗澹たる思いにかられた。

 4月はじめに委員会を決めたとき、町田は千鶴の後を追うように体育委員に立候補していたのだ。

 あまり人気がなかったため、そのまま千鶴と町田が体育委員になることになった。

 最初は喜んだものの、今では悩みの種にしかならなく、町田は千鶴に気がつかれないように溜息をついた。


「町田くん、もっと速く走ってよ」


 余裕の表情で言う千鶴。

 それに比べて、町田は早くも疲れつつあった。

 階段を全速力で上っているので、疲れるのは当たり前なのだが、隣を走る千鶴は一向に疲労の色を見せない。

 息さえ荒くなっていない彼女に対して、ハアハアと肩で息をしている自分という対比。

 町田は、こんなところにも千鶴と自分の体力の違いを思い知らされるのだった。


「もうっ。先に行くからね!」


 疲労困憊している町田に愛想をつかして、千鶴は勢いよく疾走した。

 階段を豪快に上っていく。

 すぐに町田を追い越して、そのまま距離を離し続ける。

 その後姿を、町田は屈辱感に苛まされながら見送った。

 千鶴の艶かしい太ももが、魅力的な筋肉の筋を浮き出させるのに目を奪われながら、息を荒くするしかなかった。


 ●●●


 町屋の通う学校では、ゴールデンウィーク明けの体育で、ソフトテニスとソフトボールを行うことになっていた。

 普通、ソフトテニスには女子が参加し、ソフトボールには男子が参加する。

 厳密に割り振りがなされるというわけではないが、例年、この学校の体育では、そのような慣行が続いていた。

 しかし、今年は、一人の例外がいた。

 男子の中に一人だけまぎれこんでいるその女性。

 彼女は、おもむろに町田に近づくと、元気よく言った。


「町田くん、キャッチボールしよ!」


 グローブを片手に、千鶴が町田に話しかける。

 とりあえずは練習ということで、体育教師から二人一組でキャッチボールをするようにといわれた矢先のことだった。

 町田は、その千鶴の声でビクリと背筋を凍らせながらも、目の前に迫る豊満な体に目が釘付けになってしまった。


(た、体操服姿だと、一段と迫力が……)


 薄い布地を突き破らんとする大きな胸。

 それが、垂れることもなく、前に突き出ている。

 さらには、短い半ズボンから伸びる健康そうな生足。

 そのどれもが魅力的で、町田だけではなく、その場にいる男子全員が、チラチラと千鶴のほうを盗み見ていた。


「どうしたの、町田くん。ぼおっとしちゃって」


 首をかしげる千鶴。

 町田は、ハッと我に返って、


「う、うん、そうだね。キャッチボール一緒にやろうか」

「うん♪ やろうやろう!」


 元気よく言う千鶴に、町田は見惚れてしまった。

 やはり自分は彼女のことが好きなのだと、そう思った。

 けれど、いつなんどき、彼女が自分のことを虐めてくるか分からない。

 こうして一緒にいられることはとても嬉しいことだけど、次の瞬間には、お仕置きという名の拷問が待っているかもしれない。

 そう思うと、町田はとても落ち着かない気持ちになり、一刻も早く千鶴から離れたいような、それでいていつまでも彼女の傍にいたいような、矛盾した気持ちにさせられた。


「それじゃあいくよ!」


 周囲でもおもむろにキャッチボールが始まったころに、千鶴が町田にむかってボールを投げた。

 その投げ方はさすがに堂に入っていて、思わず見惚れてしまうような美しいフォームだった。ボールは綺麗な回転と放物線を描いて、町田のグラブに吸い込まれた。

 町田も野球部の面目をたもつためにボールを投げ返す。しかし、慣れない大きなボールのためか、コントロールが定まらなかった。


「あ、ごめん」


 千鶴のはるか頭上に飛んでいってしまうボール。

 しかし、千鶴はそれを、とてつもないジャンプでグラブにおさめてしまった。ジャンプの振動でぶるんぶるんと揺れる大きな胸をそのままに、笑顔の千鶴が、


「もう、しっかりしてよね」

「ご、ごめん。やっぱりボールが違うと勝手が違って……」

「そうだね。確かに最初は投げづらいかもしれないね。でも、慣れると案外簡単なんだよ。ほら」


 さきほどよりも強く千鶴がボールを投げる。

 空気を切り裂くような音。バスン! と町田のグラブが軽快な音を発した。


「それじゃあ、どんどん距離とっていくからね!」


 言うと、千鶴は塁間を越えて、段々と離れていった。

 その間もキャッチボールは続くのだが、町田のコントロールは安定しない。

 それとは対照的に、千鶴のボールはとてつもない迫力をもって町田のグラブに襲い掛かるようになっていた。

 速い。

 スプレーをふきかけるような、プシュウウウ! という風きり音のあと、バチン! と体を震わせる音が響く。

 しかも、千鶴のボールはすべて、町田の胸元に狙いがつけられていて、町田はまったく動く必要がなかった。


(増田さん、やっぱりうまいなあ)


 さすがは本職だ、と、町田は余裕をもって思うのだが、そんな態度も、徐々にとれなくなっていった。

 千鶴がどこまでも下がっていくからだ。

 距離が伸びるたびに、千鶴と町田の力量の差が浮き彫りになった。

 町田のボールは大きな山なりを描いて、ようやく千鶴に届くありさまだった。

 しかも、コントロールが悪く、千鶴は前後左右に移動しなければならない。

 それに対して、千鶴のボールは一直線の軌道を描き、コントロールもかわらなかった。

 とんでもない強肩。とてつもないコントロールだった。

 おそらく下半身が発達しているのだろう。全身をつかった千鶴のボールは、どんなに距離を隔てていても、変わらずにすごい迫力をもっていた。


(く、くそ・・・・・・)


 町田の心中に焦りが生まれていく。

 いくら力が強くても、野球やソフトボールの技術はそれとは違うはなしで、さすがに自分のほうが千鶴よりもうまいだろう。

 そんな根拠なき自信が、千鶴の投げる剛速球によって打ち砕かれていった。

 もはや、力量の差は明らかだった。

 大人と子供のキャッチボールである。

 圧倒的な力量をもつ千鶴が、へたくそな子供をリードしてなんとかキャッチボールのていを保っていた。


「こらー! 町田くん! 本気で投げなよ! ボール、わたしのところまで届いてないよー!」


 ついに、町田のボールが、とんでもない山なりを描いても千鶴に届かなくなった。

 てんてんてん、と、何度もバウンドをしたボールが、ようやく千鶴にたどりつく。


「えい!」


 シュウウウッ!!


 同じ遠距離だというのに、千鶴のボールはなおも一直線に投げ込まれた。

 ズバン! と自分のグラブが揺れるたびに、町田は焦りと屈辱を感じた。

 周囲ではクラスメイトたちが、横目で自分たちのことを見ている。

 女の子である千鶴はノーバウンドでとんでもないボールを投げているのに、自分はみっともない山なりで、しかも最後にはころころと地面を転がってようやく千鶴のもとに届くボールしか投げられていない。

 女の子に負けている……。

 しかも、小学生の頃から続けているキャッチボールで……

 町田は、ショックを隠せなかった。



 ●●●



「もう、しっかりしてよね、町田くん!」


 キャッチボールを終え、町田の近くにまでよった千鶴が怒ったように言った。

 手を腰にやって、その大きな胸をドンと強調するようにして屹立している。

 町田は自分が情けなくて、彼女の姿を見れないでいた。


「遠投もぜんぜん届いてないしさ。町田くん、肩弱すぎなんじゃないの?」

「う、ううう」

「町田くんってキャッチャーだったよね。よくそんな弱い肩でキャッチャーがつとまるね」

「…………」

「女子ソフトボール部だったら、町田くんみたいな肩の弱い人、守備位置だってもらえないよ。マネージャーになるしかないんじゃない?」


 辛辣な言葉を言う千鶴の眼には、どこか嬉々とした感情が浮かんでいた。

 キャッチボールもろくにできない男を叱る女の子の図。

 純粋な力関係だけではない。千鶴は、あらゆる面で、町田の能力を圧倒しているのだ。


「もう! じゃあ次はトスバッティングだから。今度こそちゃんとしてよね!」


 千鶴は言うと、バットをとりにいってしまった。

 町田は、うなだれたまま、彼女の後姿を見送ることしかできなかった。

 自分は、力だけではなく、キャッチボールでも千鶴に勝てないのだ。そう思うと、自分がたまらなく惨めに思えた。

 トスバッティングでも、千鶴と町田の力量の差は明らかだった。

 千鶴のバッティングは、すべて、町田の胸元にワンバウンドでかえった。

 どんなに難しいボールであろうと、彼女のバットは獲物を逃さず、すべてを完璧に打ち返していた。

 それに比べて、町田のバッテンィグはお粗末すぎだ。

 トスバッティングなのだから、当然、千鶴は軽くボールを投げる。

 にも関わらず、町田は何球かを空振りし、バットにあたったとしても千鶴の胸元にはかえらなかった。

 どこか見当ハズレな方向へと飛んでいくボールを、千鶴は、持ち前の機動力をいかし、機敏にクラブの中におさめていった。


(ううう、こんなはずじゃ……こんなはず……)


 焦りはミスをよび、さらに千鶴との差を思い知らされる。

 なんだか喉の奥に冷たいものが込み上げてきて、町田は知らず知らずの間に涙目になっていた。

 そんな町田のことを、千鶴は冷ややかな目でもって観察するようになっていた。

 そこには侮蔑すらあったかもしれない。

 あまりにも下手くそな町田のことを見て、自分とは比べ物にならないほどに動きの悪い町田のことを見て、千鶴は町田のことを、完全に自分よりも”下”に位置づけ始めていたのだ。


「はー、これじゃあ、ぜんぜん練習にならないじゃん」


 千鶴が呆れたように言う。

 どんなに今まで町田が情けない様子を見せても、ニコニコとしていた千鶴は今はいない。

 大好きなソフトボールに関して、千鶴は妥協をしらなかった。

 その向上心ゆえ、たかが体育とはいっても、少しでも練習時間にあてて、もっとうまくなろうと考えていたのだ。

 それが、肝心の相手がこうでは話にならない。

 千鶴は、冷ややかな視線を浮かべながら、町田のことを見下ろしていた。


「きょ、今日はたまたま調子が悪いんだよ。それに、ソフトボールの球にだって慣れてないから、だから……」

「にしても限度があると思うけどなー。町田くん、今年女子ソフト部に入部してきた新入生の誰よりもヘタクソだよ。もうダントツに」

「だ、だからそれは、ボールが大きくていつもとかってが違うから……」


 町田は、冷ややかな千鶴の視線を感じながら、必死に言い訳をした。

 ボールの大きさが違う。それだけが町田の心の支えだった。

 こんなに大きなボールを最初からうまくつかえこなせるはずがない、いつもつかっている硬式の野球ボールならば、自分が千鶴に負けるはずがない。

 それどころか、今の自分と彼女の立場はまったく別のものになるだろう。

 あの固くて重いボールを、千鶴が使えこなせるわけがない。町田はそう思っていた。


「ボールが違えば、町田くんはもっと上手なの?」


 千鶴が、手を腰にあてたまま言った。


「そ、そうだよ」

「いつもつかっているボールなら、今よりマシになるんだ」

「そうだよ。それどころか、きっと増田さんにだって負けないだろうね」

「…………」


 精一杯の虚勢をはって、千鶴を見返す町田。

 そんな町田のことを腕組みしながら見つめた千鶴は、ふう、という溜息のあとで言った。


「じゃあさ、ちょっと勝負してみる?」

「え? なにが?」

「野球でだよ。町田くんがいつも使っている硬式ボールで、わたしと勝負してみよっか」

  

つづく